呼ぶ音 4
追いかけてくれるのは嬉しい。でも、河川敷へ行くのを止められたら困るのだ。脱げたサンダルを拾おうともせず、沙智子は足を速めた。だが、河川敷の隅まできて、沙智子は夫に捕まってしまった。河川敷は明かりもなく暗い。ただ、半月が薄ぼんやりとした光を発している。
「なぁ、何やってるんだ、一体どこに」
夫の手には、沙智子のサンダルがある。ほら、この人は優しい。だからやっぱりあの女が。
「そこ、そこだから」
沙智子は川を指差した。半月に青く照らされた淀みが見える。夫の手から離れ、駆け寄った。そこに小さく瑞々しい花束が供えてあることに気付く。だが、そんなことには構っていられなかった。
服が濡れるのもかまわず、まわりの小石をかき集めて淀みを埋める。どんどん平らになり、小石がほんの少し水に浸かった状態になった。ホッとした刹那、視界の中に小さな足が入ってきた。
ドキッとして顔を上げると、そこに男の子がいた。ダムを造っていた子だ。ママがくれたお花、という言葉が蘇ってきた。供えてある花がその花なら、この子はすでに死んでいるのか。それでもダムを壊したことを謝りたかったが、その後ろに薄茶色のスカートが見えた。のどの渇きのせいで声が出ない。
顔を見上げると、女は手にしたラムネの瓶を差し出した。声にならないまま瓶を受け取ると、女は薄く悲しげな微笑みを浮かべた。腕から力が抜け、瓶が大きめの石にぶつかる。ガチャンと音を立てて、瓶の下半分が割れて崩れた。
「沙智子!」
夫が駆け寄ってくる。後ろから抱きしめられ、引きずられるように後ろに下がった。
「この女」
夫が険のある声を立てる。女の視線が私の後ろに向いた。冷たく射るような目だ。
「さっき確かに……っ」
夫の声はかすれ、かすかだったが、しっかりと沙智子の耳に入った。とたん、女が空気に溶け始めた。微笑みを浮かべて子供を抱くと、共にかすれるように見えなくなっていく。
後には、置いてからそんなに時間は経っていないだろう花が残った。先に亡くなった子供に供えた花だったのだろう。彼女はこの花を供えた時は生きていたのだ。なぜ、夫は彼女が死んでいることを知っていたのかと、疑問が湧き出てくる。そして、その答えは頭の中で明確に形を成した。
夫はやはり、彼女を知っていたのだ。しかも、彼女がいつ亡くなったかと言うことも。それは夫の言う「さっき」。そして「確かに」夫の目の前で。
沙智子はただ茫然と、消えていく女と子供を見ていた。完全に見えなくなってしまうと、不意に夫の腕が首にまわり、力がこもった。なにか夢でも見ているように、頭がボウッとしてくる。
「沙智子、ゴメンっ」
その涙声に、瓶を持った沙智子の右手が勝手に動いた。半分になって鋭く尖った部分が、勢いよく顔の横を通る。ぎゃあ、という叫びと共に生ぬるい血しぶきが飛び、夫の腕から力が抜けた。
耳元で、カラン、とラムネ瓶の乾いた音が聞こえた。
―了―