大切な人 1-3


「何が?」
「だって私、一度もできないんだもの」
「い、一度も?」
「今、笑ったわね?」
 いつもよりも断然早く、腕が辛くなってくる。吐き出す息が震え、どうもリディアには笑い声に聞こえたらしい。
「い、いや、笑ってない」
「嘘。意地悪」
 そう言って、リディアはほんの少しだけ体重を肩の方へずらした。
「意地悪って、おい……」
 リディアには分からないかもしれないが、ずれたのがほんの少しでも、腕に結構な負担が掛かってくる。だからといって、ここでギブアップするのも腹が立つし、情けない気もする。砂時計が気になるが、ここからは見えない。
「今どのくらい?」
「半分くらい」
 リディアは首を動かし、俺にささやきかける。
「半分? 嘘だろ?」
「少しだけ残ってる」
 リディアは、可笑しそうに耳元で小声で笑った。
「全然違うだろっ」
 苦しくて息が切れ、思わずうめき声が漏れる。ようやく腕をまっすぐにしたが、もう一度もできそうにない。
「キツいよ……、動かなくても、駄目そう」
「嫌、もう少し」
 いくらリディアに励まされても、もう限界だ。支えているだけで腕が震える。
「リディア……。くっ、もう、保たない」
「なにやってんだっ!」
 いきなりでかい声を上げて、バックスが勢いよくドアを開けた。驚いて体勢を崩し、リディアを背中に乗せたまま床にへたばる。背中からキャアと悲鳴が聞こえた。バックスは、背中にいるリディアと俺を見て、呆気にとられている。
「バックス? どうしたんだ?」
「あ、あれ? 上下逆、ってか、悪いっ!」
 バックスはほとんど叫ぶように言うと、身体を引き、大きな音をたててドアを閉めた。リディアは俺の背中から降りる。
「上下逆?」
 バックスが言った、俺とリディアの上下を逆にした状態がどういう状況で、しかもリディアとの会話がどういうモノだったかに思い当たり、俺は思わずブッと吹き出して床に突っ伏した。
「って、バックス、それ、止めてももう遅いんじゃ……。超えちゃってるよ」
 リディアは、心配げに顔をのぞき込んでくる。
「大丈夫? どうしたの? 何が遅いの?」
「何って……。鼻血吹きそう」
 俺がすっかり上気してしまった顔を上げると、ちょうど砂時計の砂が落ちきったのが見えた。

☆おしまい☆


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