境界  1


 塔の上まで上り、冷たい風に身体をさらす。厚い雲の間から顔を出した細い月の明かりだけが、地上を照らして儚く煌めく。森が夜霧を内包し、街の灯りはすでに消え、闇が生き物のように建物の隙間で蠢く。

 今夜はどうしても寝床に入るわけにはいかない。眠りに落ちたら。今日こそは……。

 毎夜、夢の中で逢うあの人は華だ。柔らかな笑顔をたたえ、いつも手を伸ばしたら届きそうなほど近くに存在している。
 だが、決まってこの手は届かない。翌朝、空気をつかんだ感触だけが、手のひらでうずくことになるのだ。
 休んだはずなのに疲労が全身を覆い、あの人への思いが心を支配している。すべてを投げ出して、何度でも眠りにつきたくなる。

 このままではいけないのだと、身体のどこかが警鐘を鳴らしている。朝から一番遠い今ならば、至極冷静でいられるのだ。もう眠ってはいけない、それがきっと最善の方法なのだろう。
 ここは睡魔とは無縁の場所だ。深く息を吸うと身体の隅々まで冷気が行き渡り、感覚が鋭くなる。まだ大丈夫だと思うと、可笑しさに声を立てて笑いたくなる。

 気付くと夜霧が森から溢れ、山を隠し、街も飲み込んでいた。月も雲に飲み込まれ、単純で深い風景が狭く広がっている。
 霧は浸食を続け、足元にも流れ込んできた。この時期にここまでの霧は珍しい。でも、冷たい空気の感覚は、鈍ることなく肌を撫で続けている。大丈夫だ、眠らずにいられる。その自信は揺るがない。

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