呼ぶ音 3


 女性の逸れない視線に動揺し、沙智子は部屋に入る振りをして目をそらした。恐怖に負けてもう一度振り返ると、女性がアパートの入り口に向かって手を振るのが見えた。ラムネの瓶が鳴る。
 沙智子は家に入り、カーテンを閉めた。その女性にバレないよう、薄く空けた隙間からのぞき見る。そこに見えたのは、手を振り続ける女性の姿だった。誰かが通るのを待っていたのだろうか。手を振るのをやめるとクルッと後ろを向き、川の方へと歩いていく。カラン、とビー玉がぶつかる音も遠くなる。沙智子がホッと息をついた後ろで、ドアの開く音がした。
「ただいま」
 耳に夫の声が届き、沙智子は息を呑んだ。
「あ、あなた……」
 暗く疲れ切った顔の夫が部屋に入ってくる。この人はなぜ今帰ってきたのだろう。あの女性が手を振っていたのは、この人にだろうか。そう疑う気持ちが、容赦なく膨れあがってくる。
「どうした?」
 訝しげに眉を寄せ、夫が聞いてきた。
「ベランダから見てたの」
「何を」
「女」
「女?」
 夫はさらに訳が分からないといった顔を沙智子に向けてくる。
「あなたに手を振っていたじゃない」
「は? 見てないけど」
「髪が長くて、薄茶色のワンピースを着て」
 夫が息を呑んだ気がした。あの女を知ってる。嘘をついて隠そうとしているのだと思う。
「ラムネの瓶を持ってた」
「ラムネ? なんだそれ。知らないって」
 隠されているという考えに囚われて、沙智子は夫を信じられなくなっていた。この人は真面目だし、私を愛してくれていると思う。でも、それとあの女の存在は別の話かもしれない。また胸の中で何かが黒く渦巻いている。
 沙智子は子供が造っていたダムを思い出した。その淀みは、穴が空いたように黒くまがまがしく見えた。それからどこかが狂い、おかしくなっているように沙智子には思えた。
 ふと、河川敷にラムネの瓶を忘れてきたことに気付いた。私が片付けなかったから、あの女はわざわざうちに来て嫌がらせをしたのかもしれない。そうだ、そうに違いない、夫は関係ない、きっとそれで間違いない。
「行ってくる」
「え? どこに、おいっ」
 沙智子は家を飛び出した。河川敷まで行って、子供達が造っていたダムを壊さなくてはならない。きっとそれで淀みは消える。胸の中の淀みも消える。
 そしてあの女がいたら、ラムネの瓶を取り返さなくてはならない。そうしないと、きっとまたここに来て、夫に手を振る。あの音を鳴らすのだ。
「おい、待てって!」
 沙智子の耳に、夫が追いかけてきている声が聞こえた。
「怒ってるのか? 明日からは早く帰れるから」

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