呼ぶ音 2


 食卓に戻って椅子に腰掛ける。珈琲を一口飲むと、その香りが不安を隠し、ノドと気持ちを冷やしてくれた気がした。今なら冷静に見られるかと携帯を覗いてみたが、やはり連絡は入っていない。
 連絡できない状況なんて、そんなには無いだろう。電話もメールもしたくない何かがあるとしたら。少しも手を離せないほど、仕事が忙しいのだろうか。それとも、もしかしたら浮気かもしれない? まさか、そんなことはない。真面目な人だ。私を愛してくれている。疑うなんて失礼だ。でも。
 一度思いついてしまったその疑いが、頭にこびりついて離れない。珈琲のグラスの中で、また黒い淀みが渦を巻いた。
 沙智子は手にした携帯で、夫の会社に直接電話をかけた。知らない誰かが出たら、黙って切ってしまえばいい。大きな会社ではないのだから、夫がそこにいるなら電話に出るかもしれないと思う。
 通話を切るボタンに指を乗せながら、呼び出し音が消えるのを待った。だが、同じ音が虚しく繰り返されるだけで、その音は消えようとしない。
 誰もいない。まさか、残業がなかったのだろうか。そんな考えが浮かんだが、沙智子は首を振って振り払った。仕事が終わったから誰もいないのだ。もうすぐ帰ってくるのだろう、そう思い込もうと努力する。携帯を閉じてテーブルに置いた。また、カラン、とガラスの音がした。
 会社からは車で20分程度だ。夫が浮気をしているなんて疑いを持ったことがバレないように、ちょっとだけ拗ねた顔で出迎えてやろう。夫が連絡しなかったことをゴメンと一言謝ってくれたら、そんな疑いは忘れてしまえばいいのだ。
 グラスのまわりに水滴の付いたアイス珈琲を、一気にノドに流し込む。今夜も暑く、寝苦しい夜になりそうだ。一ヶ所だけカーテンを閉め忘れていることに気付き、沙智子は立ち上がって窓に近づいた。カーテンを引こうとして、風鈴の短冊に手が触れる。リーン、と長く響く音がしたのは南部鉄の風鈴だ。
 そういえば今年はガラスの風鈴をやめて、南部鉄の物に変えたのだった。それなら、さっきの音は何だったのだろう。ガラスの音がしていたような気がする。夫が下げたのだろうか。でもどこに?
 沙智子は窓を見て回ったが、どこにもガラスの風鈴は無かった。最後、ベランダに通じる窓へと近づき、カーテンの裏側をのぞいた。だがやはりガラスの風鈴は見あたらない。気のせいだったのだろうと窓に背を向けた時、後ろで、カラン、と音がした。ドキリと胸がなる。
 音は外からだったのだ。でも、最初に聞こえたのはいつだっただろう。ずっと同じ場所でガラスの音がしていると思うと、気味が悪い。
 沙智子はもう一度窓に向き直ると、カーテンをそっと開け、ベランダの様子をうかがった。隣の風鈴だろうかと思いついて納得したとたん、アパートの前の道で、カラン、と音がした。
 ベランダの向こうに目をやると、電灯の下に浮かびあがった視線と目が合った。背筋に寒気が走る。河川敷で見た長い黒髪、薄茶のワンピースの女性だ。白い手にはラムネの瓶。その瓶が、カラン、と音を立てた。

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