至高の空 1


 征弥(ユキヤ)という名前は、将来俺が車関係の仕事に就くようにと、姓名判断の本を調べながら母親が付けたらしい。なんでも、F1レーサーになって欲しかったんだとか。まったく、名前だけでなれるなら、誰も苦労しないだろうよ。というかそれ以前に、運送会社もタクシーの運転手も立派な車関係だろうが。その辺りは何も考えなかったんだろうか。
 24歳になった今、結局俺は違う道に進んでいる。だが、車じゃないがレースをやっているのには違いない。F1と比べれば遅くて、せいぜい時速 130 kmほどだが、身体一つで出すスピードにしては滅茶苦茶速いだろう。いや、用具は色々必要なのだが。

   ***

「ユキヤ、Ready?」
 その声にうなずいて、スタート地点に立つ。コースの先を見据えたまま、ゆっくりと深呼吸をする。タイム計測の時計音を数え、俺は白銀の舞台に最初の一歩を踏み出した。わずかでも抵抗が少なく済むように雪を蹴り、スピードに乗っていく。赤い旗門ばかりが続く、標高差 960 m、全長 3455 mのコースを、2分弱ほどで滑り降りなくてはならない。
 スキー、アルペン種目の中でもこのダウンヒル、滑降競技は、非常に勇気が必要なレースだ。平均時速 100 kmを超えるため、まずは速度に対する恐怖に打ち勝つことを要求される。
 このコースはスピードが出すぎないよう、旗門などの設定をしっかり決めてあって、昔から変更されたことがない。競技規則で最低ターン半径が 5 mほど大きく変更になった時も、すべてのカーブが範囲内に収まっていたので、どこも変える必要なく済んでいる。そのために、わりと重要視されるコースレコードが存在する、非常にまれなコースだ。
 俺はそのコースを、空気の抵抗を受けないよう身体を丸め、風の隙間を縫うようにかっ飛んでいる、はずなのだが。
 最近はどうしてこんなに遅く感じるのか。なのに恐怖感だけは変わらないなんて最低だ。もっと先へ、先へ。少しでも速くゴールへ滑り込まなくてはならないのに。これじゃ遅い。もっと前へ行けるはずだ。もっと、もっと、もっと。
 不意に意識だけが身体の前に出た。コーチと決めたラインをたどっていたはずが、身体が右に流れる。すぐにジャンプだ。 70 mほど空を移動するのに、このまま飛んでしまったら着地点はどこまでずれてしまうだろう。焦っただけで迷う間もなく身体が宙に浮いた。恐怖が全身を支配した。

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