レイシャルメモリー 3-02


 唯一、地下へと続く階段ならば、怪我をしてもおかしくないと思われる。だが、なだらかな上に踊り場が広いので、足を踏み外したところで瀕死の怪我にはならないだろう。石でできた手すりは幅もあり、当人が乗り越える努力をしない限りは、落とすことも簡単にはできない。
 しかも心配はそれだけではすまない。フォースの身の回りの世話をしているのは、ソーンだけということになるのだ、心許ないことはなはだしい。誰か新しく就けているのだとは思うが、フォースが塔にいないことを誰かに漏らされる危険まで気に掛かってくる。
「少しでも眠った方がいい」
 思考をさえぎった声にハッとして、イージスはいつの間にか自分を見ていたアルトスを見やった。
「もう少ししたら、私も休む」
 はい、と返事をして、イージスは自分が座っている椅子の下を開け、毛布を取り出そうと屈み込んだ。
 突然、馬のいななく声と共に減速で馬車が揺れ、次の瞬間、ぎゃあ、と御者の叫び声がした。バランスを崩したイージスは、身体を支えるまもなく座席に抱きつくような格好になる。その後方にできた空間にアルトスが立ち上がり、声を外に向けた。
「どうした?」
 体勢を立て直したイージスは、アルトスが止まってしまった馬車の窓から御者台の方向に上半身を乗り出したのを見た。妙に生臭い匂いが馬車の中に流れ込んできて、吐き気に顔をしかめる。ヒィヒィと息をするたびに漏れる御者の声が続いていて、気が触れたようにさえ響く。
「なんだ、これは……」
 馬車の外側でアルトスの声がする。イージスは反対側の窓から顔を出し、窓の外側にポツポツと付いている黒いシミに気付いた。顔を向けただけで、辺りの嫌な匂いはこのシミが原因だと分かる。
 外に出て馬車を振り返り、イージスは目を見張った。その黒い物体が馬車に飛び散っている。前に回ると、その物体で黒く染まっている御者が目に入った。
「おい、どうしたんだ。何があった?」
 アルトスに腕をつかんで揺さぶられると、御者は一瞬正気に戻ったように視線を合わせ、そのまま気を失った。
 イージスは馬の所まで歩を進めた。御者の声のせいか、いくらか興奮はしているようだが、幸運なことに異常がない。イージスは馬に呼びかけ、肩や背中をかるくたたいて落ち着かせながら、アルトスが御者を馬車に運び入れて戻るのを待った。手伝った方がいいに違いないが、正体が分からない黒い物体のあまりの不気味さに、御者に触れるのも嫌だった。
「行くぞ」
 馬車から出たアルトスは、御者台に向かっている。
「私は……」
「どこかに乗らないと置いていくぞ」

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