新緑の枯樹 9-6


 無表情に見えるリディアの瞳から、涙が一筋だけ流れ落ちた。同じ命。そう、分かっている。それを奪ったのは他でもない、俺だ。あんな風に追い込まなければ、彼は階段から落ちなかったかもしれない。でもどうすればよかったのか、俺には分からない。
 神官と騎士は、人を守るという点では同じ仕事だ。だが、その内容はあまりにも両極端だ。騎士は心まで傷つけないと守ることもできないのか? 神官がそうするように、騎士では心を守ることはできないのだろうか。だとしたら、こうして罪を重ねていく限り、リディアの救いにはなりえない。
 リディアと目があって、俺は思わず視線をそらした。神殿を目の前にした時の罪悪感と似た思いが沸き上がってくる。俺はジッと死体を見つめているブラッドの肩を叩いた。
「ここにいてくれ。下の部屋を全部見てくる」
「え? でも」
「助けに出てこなかったんだ、もう誰もいないさ。何かあったら呼んで」
 サッサと逃げようとした俺の腕を、リディアが掴んだ。
「ありがとう」
「何が?」
 俺はリディアの言葉に思わず強い口調で返した。リディアはその声に驚いたように手を引いてうつむく。
「助けてくれたから……」
 助けた? でも、心は傷つけたんだ。人が死んだから、殺傷沙汰なんて見せたから、だから泣いたんだ、涙が出たんだろ?
「すぐ戻る」
 俺は階段下右のドアを開けてホールを後にした。目についたドアを片っ端から開けていく。角を曲がって、またドアを開ける。頭の中は空っぽだ。何も考えたくなかった。今襲われたりしたら、なんの抵抗もなく斬られてしまうかもしれない。それでもいい気がした。
 突き当たり一つ手前のドアを開けたとたん、突然目の前を影がよぎった。条件反射のように剣に手をかけてから、それがネズミだと気付く。冷や汗が出た。
 ここは台所のようだ。火を使った後がほこりをかぶっていない状態で残っている。ネズミがいたってことは、なにか餌があったということだろう。あいつはここに隠れ住んでいたに違いない。
 あいつはライザナルの人間だった。そう、普通の人間だ。消えたと言ったのは、たぶんイアンの事件に乗じてのことだ。消えるなんてことが嘘だったのなら、あいつを逃がしたウィンも十中八九ライザナルの諜報員だろう。もう一人は、確かセンガとかいう名前だった。最初から仲間なのか、懐柔されたか。脅されて片棒を担がされたとも考えられる。
 問題はもう一つの方だ。ウィンらと関係がないとしたら、イアンらは、あれきり何も起こしていないということだ。神出鬼没の何者かに狙われたということについては、何も変わっていない。

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